命の使い途

社会のこと
David MarkによるPixabayからの画像

このところ、なんだかとても忙しい。
古い友人は、ここにはあまりいないのだけれど、それでも10年近く付き合っている元同僚だったり、まだ数年のお付き合いでも、とても仲良くなった人もある。
夏休みは、商業的にも二八(ニッパチ)と昔から言うように、暇な時期のはずなのだ。
ところがコロナ明けということで、なんだかみんなが外に出なければ、という気持ちに追い立てられているように見える。
そういうわけで、いろいろなお誘いを受ける。
ありがたいことだと思っている。

人とのお付き合いを増やすということは、それだけ別れも増えるということだ。
悲しい別れの経験も、どうしても増えてしまう。
積極的に命を捨てなくても、人間は必ず死ぬ時が来る。
それでも自らの命を絶つ人は、なくならない。
人間は自由だ。
努力はしても、誰も本当には止めることができない。
その命があれば、助かる人がたくさんいるのだけど、そちら側を選択した人は、自分の苦しみのことしか考えられなくなっているのだから、何を言っても届かないのが悲しい。
ただ、これだけ少子化が進んでしまうと、高齢で病気になってしまったら、おそらくは、選択肢の中に尊厳死も入ってくるのではないかと思っている。
それを考えると、持ち時間は、そんなに多くはないのかも?
自分の時間の使い方について、選択を誤らないように生きていきたいと思う。

昔、まだマザーテレサがお元気だった頃、私には、私の戦いがあって、もしもこれに負けたら全てを捨てて、バケツ1つとサリー2枚の世界に入ろうと思っていた。
本気だった。
命というものは、自分だけのものではない。
だから、自分の人生として生きるのを諦めるとしたら、全てを他の人の人生に捧げるという生き方もできると思う。
そこに気持ちが到達できるかできないかで、同じような経験をしても、選択が変わってくるのだろう。
覚悟した人間は強い。
既に競争の舞台から降りているのだから、負けはないのだ。

ここまで追い詰めなくても、全てを他人の責任にして、自立できずに過ごしている時間は、もったいないものだと思う。
どこかで切り替えて、生きる方に向かってくれるといいなと、心から願っている。

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