1年ほど、庭木を切らなかったら、またにょきにょきと伸びてしまった。
そんなのは、当たり前のことで、予測もついていた。
それでも、木を切るという作業は、胸が痛むのだ。
のこぎりを引くと粉が散り、青い部分が痛々しい。
取り合えず、木には、ごめんねと謝っておくことにしている。
しょく罪などと言っていいものかどうか、自己満足というよりは、責任を負えない申し訳なさ、みたいな気持ちなのだと思う。
少し前に、動物の保護をしている人たちの団体の代表が話をしているのを聞いた。
その人たちは、保健所に出かけ、殺処分になりそうな犬猫を保護して、新しい飼い主を探して渡すという活動をしているのだそうだ。
消えて行ったかもしれない命を救う活動は、本当に尊いと思う。
一方で、いろいろな条件があるので、里親になるのが難しくて諦める人もある。
それぞれに理由があるので仕方のないことだと理解はするけれど、年齢を理由に断られる人は悲しいだろうと思う。
人によって寿命は違う。
若いからといって命の保証があるわけではないので、微妙な感じがしてしまう。
その後、ブリーダーたちのことが話題になった。
コロナ禍で需要が高まったため、どんどん繁殖させていたけれど、売れなかったことから多頭飼育崩壊をして、倒産したまま動物を放置して逃げたケースがあったらしい。
かなり悲惨の状況で生き残っている動物たちの保護に出かけた映像を観た。
また、ブリーダーの中には、種馬的な意味で使った動物は、殺処分に回すなどして利益を上げていた人もあるのだとか。
食するために命を頂くのとどう違う?と問われれば辛くはあるけれど、少なくとも食せば、人間の中で細胞を構成する一部になって生き続けると思う。
それは野菜も同じことだと思う。
そう考えると、ヴァンパイヤも人間も、変わりがないような気さえしてしまう。
私が切った木は、ビワの木だ。
いつか実をつけてくれるかもしれない。
最初にそうしたように、その種を植えれば、また命は次につながるのだ。
だからフルーツは、気兼ねなく食べられるという気がする。
でも、ただ落ち葉が邪魔になるとか、影ができるという理由で木を切ると、なんだかもやもやしてしまう。
考えても仕方のないことだ。
そんなことを思いつつ、食いしん坊の私はまたおいしいものを作って食べようと考えているのだから勝手なものだと思う。