愛すること

自分のこと
Sabine van ErpによるPixabayからの画像

時々、誰かに尋ねてみる。
「愛する方と愛される方、どちらが幸せだと思う?」
唐突に尋ねた場合、「愛される方」という答えの方が多いように思う。
なんとなく、みんなはどう思っているのだろうと尋ねてみるのだけど、尋ねられた方は、ちょっと驚いた顔をすることが多い。
これが、友人だった場合は、また? くらいの感じで受け止めてくれる。
アンケート調査のつもりではないけれど、なんとなく気になることができた場合、一人で抱えるよりも、やはり周囲に尋ねてみたいと思うのが常だ。

そもそも、この質問の際の設定は、男女間だけど、交際相手という設定ではない。
交際する時には、いくらかでも既に相手に対する感情が芽生えているはずで、そうだとしたら愛の量をについて考えることになるので、私の質問の趣旨から外れてしまうのだ。

「愛される方が幸せ」というのは、確かにそうだと思う。
自分の思う相手からでも、そうでない人からでも、想われるというのは、幸運なことかもしれない。
何故なら、少なくともツンケンされずに済むのだから息がしやすい。
迷惑に感じるとしたら、相手にそういう気持ちがないのに、感情を抱いた側が同じような感情を持って欲しいと強要してしまう場合で、そうなるとストーカーのように感じられてしまう可能性だってある。
でも、私の質問に対して「愛される方」と答える人は、好きな相手を想定して答えてくれているのだろうと思う。
なので、恋愛が成就するという意味にとらえているのかもしれないし、もしかすると量について、相手方の想いの方が多いという意味の可能性もある。

私は「愛する方が幸せ」ではないかと思っている。
何故なら、それなら無責任に自分だけが想いを抱いていればいいのであって、相手に通じないなら告げなければ、抱えているだけでいいのだ。
これをしたら、喜ぶかもしれないとか、こんなことをしてあげたいという思いがあったとしても、それを表現した途端に壊れてしまうかもしれないし、しない方がいい場合も多々ある。
何故なら、こちら側の勝手な思いだから。
好きな人には好意を寄せて、じっとしていれば想いは届くものだと思っている。
ただ、気づいたとしても、それに応えてくれるかどうかは、相手次第だ。
愛するというのは、その人を見ているだけでも幸せだし、書いたり読んだり、何かの存在を感じるだけで幸せなものだと思う。
相手が幸せに笑っていたら、それを幸せに感じるのが愛だと思う。
その人の決めた生き方があるなら、それを応援していればいい。
無理に自分の方に引き寄せるのは、エゴであって愛ではない気がするのだ。

102歳で他界した祖母が、米寿の頃に私に言った「尽くしなさいよ」という言葉の意味を、長い間、古い言葉だと思っていた。
女性が男性に尽くすというので、男性上位の言い方に思えたのだ。
でも、もしかしたら、大きく間違っていたのかもしれないと、最近になって気づいた。
相手が夫でも子供でも、その反対でもいいのだけれど、相手を大事にするという意味合いではなかったかと思う。
明治生まれの祖母の語彙の中に「愛」という言葉などなかっただろう。
おそらく、心を尽くす=愛することだったのでは?

祖母は、みんなに優しいというタイプの人ではなかった。
なんでもできる人だったので、おそれている人がいたのも本当だ。
対して祖父は、かなり好きなように暮らしていた。
9人も子供がいるというのに、仕事が終わると、どこかへ遊びに行ってしまったらしいので、経営は、祖母の方にかかっていた。
でも祖母は、愚痴めいたことは言っても、祖父のことを大事にしていると子供心に感じていた。

情熱というのとは違うけれど、ずっとそこにある温かいもの。
そういうのが愛ではないかと思っている。

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