猫ぢゃ猫ぢゃ

社会のこと
沖縄の友人YUNTAWAYさん宅のぽんた君

タイトルは、端唄の題名。
津軽三味線を10年ほど、習っていた。
結構な年月だけど、不真面目だった時代もあるので、あまり大声では言えない。
師匠がプロの奏者だったので、発表会などというものはなかった。
ちょっと弾けるようになったら、「はい、行きましょう」とボランティアやチャリティーの舞台に連れて行って下さる。
もうちょっとよく出来たら民謡大会にも。
私は、臆病なので、練習は一生懸命しても、舞台では音を出さない。
間違った音を出すと、ご近所に迷惑をかけるからだ。
ある時、師匠が舞台で端唄を弾いた。
お声が良い上に、70years youngの女性の艶があって、とてもすてきだと思った。
師匠は、とにかく優しい人だったので、もっと弾いて下さいとリクエストをしてみたところ、「演ってみる?」と、さのさ、木遣りくずしなどを弾いて下さった。
とてもすてきだったけれど、どう言えばいいのか、それを自分のものにして歌える自信がなかった。

他にどんなものがあるのかとネットで調べてみると、この歌詞が、かなり面白い。
例えば、「ぎっちょんちょん」の中の一節。
「丸い卵も切りようで四角 物も言いようで角が立つ」
「あの娘良い娘だ ぼた餅がおで きな粉つけたらなおよかろう」
確か落語の中にも、こうした一説があったので、近代芸能の中でも、こうした歌を歌うのは、庶民的でポピュラーな楽しみ方だったのかも知れない。

「猫ぢゃ猫ぢゃ」の中の一節。
「猫じゃ、猫じゃと仰いますが 猫が下駄はいて絞りの浴衣で来るもんか」
考えてみると、いけない話なのだろうか。
でも、時代考証とか歌う人たちの立場を考えると、いかにも陽気で憎めないし、この悋気を含んだ仄かな艶とか、シニカルさが可愛らしい。
シニカルさの部分については、フランス文学に通じるものを感じてしまうので、ちょっと口の端をゆがめて笑うのが、楽しみ方なのかもしれないと思う。

この端唄は、気軽に聞いて笑えるので、周囲を明るくできる楽しい日本文化のひとつだと思うけれど、こちらも正規の?伝統芸能と同じく、継承していく人が少なそうなのが残念だ。

そう言えば、猫を初めて飼ったのは、もうずいぶん前、まだ学生の頃で、バス停を降りると、まっ白い子猫を抱いた小学校低学年くらいと思しき男の子が、困った顔をしてた佇んでいた。
一瞬で、彼の家からここへ来るまでの物語が頭の中に思い描かれた。
「その子、あなたの猫?」
男の子は、ちょっと迷った感じだったけれど、首を振った。
「私に譲ってくれない?」
そう尋ねると、いっぺんに少年の顔が明るくなった。
とても嬉しかった。
それで、目の前の商店で餌を買ってくるので、と待ってもらい、私の最初の飼い猫になるジャムを手に入れた。
もちろん名前は、松谷みよ子の「ジャム猫さん」という童話から頂いたものだった。

以来、猫はあちらからやって来るようになって、来ない時には、もらったりして、ずっと今日まで続いている。
猫の性格にもよるけれど、概ね、ずっとくっついて来たりはしない。
なので、こちらも構いたい時に構ってみて、あちらが嫌なら無理に触らないし、向こうも、こちらが気分じゃない時には寄って来ない。
なので、バブルの中に無理やり入り込んで来ないのがいい。

師匠の家にも猫があるらしい。
「猫って、本当に何考えてるかわからない不思議な生き物よね?」
と仰ったので戸惑った。
「全然知らん顔して、じーっと一日、そこにいるのよね?」
なるほど、と思った。
きっと、その子は幸せなのだ。
特に愛想をしなくてもごはんも足りているし、いたずらもされず安全だから。

師匠は、不器用で練習不足の私にも、一度も不機嫌な顔をされたことがなかった。
常に一生懸命教えて下さったし、優しく気遣って下さっていた。
猫には、きっとお見通しではなかったと思う。
とりとめのない話になってしまった、

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