やさしいひとこと

社会のこと
UnsplashのLouis-Philippe Poitras

子供の頃、未来は、周囲の大人を見ていると、何となく予測できるような気持になっていた。
学校を出たら就職をして、結婚をして子育てをして車や自動車を購入して……というような未来がみんなにあるものだと思っていた。
ところが成長とともに、周囲のことももっとよく見えるようになったし、世の中も変わってしまい、予測とは、かなり違う人生を歩んでしまった。

もうずいぶん前のこと。
幸せについて叔父と話していた。
「こんな感じの人生が一番幸せじゃないか?」
と叔父が示した先には、その叔父の奥さんの姿があった。
「何者かにならなくていいんだよ。
何も考えなくてもいいんだよ」
彼女は、家事が上手だし、料理はともかく、洋裁も上手だ。
何かに逆らうこともほとんどせず、みんなで温泉、カラオケに行って、息子の音痴な歌を聞いて笑い転げていた。

別に、何かになりたいわけでもなかったけれど、それにしては自由に育ちすぎていたので、自分の意見を持つことは、私にとっては普通のことだった。
それでも、30代半ばくらいまでは、人の意見を常に尊重していたので、元社会科教師のパートナーには、よく𠮟られた。
ちゃんと自分の意見を言わなければだめだ、と。

考えてみれば内弁慶というか、早くに亡くなった父は、私のことを半分しかわかっていなかったと思う。
父以外の人で、初めて誰かの意見を頼りに生きられると思った。
ところが、その人も早くに亡くなってしまったので、習いたての自分の足で立つことを、一生懸命していたら、海外へ出ることになった。
アジア人なので、当然、理不尽な差別も起こる。
娘を守りながら、必死に戦って12年半を過ごして、かなり疲れて帰国した。

帰国した日本では、女性の地位が低いので、窮屈な思いはしている。
けれど、全ての人が、そうだという訳ではない。
書くことで表現するのは、修正が利くので比較的楽な方法だと思う。
でも、話をするのは得意ではない。
観察をする方が好きだし、後出しじゃんけんではないけれど、相手の意見を聞く方が好きだ。

男女間に友情はないという人もいるけれど、これまで友情はたくさんあったし、今も友情を持つ関係の友人はいる。
集団セラピーではないけれど、似た経験をした人同士で話をすることは、お互いに良く理解ができて心が軽くなることだ。
ジェンダーフリーの人でも、性別や年齢、国籍に関係なく、好きな人は好きだ。
でも、それは恋愛の感情とは違うと感じて来た。

その話をしたら、元社会科教師のパートナーは、理解をしてくれたし、私が人から学んでいることも良く知ってくれていた。
本人は、有名進学校時代に東大へ行けなければ「ゴミ」と呼ばれたと言っていたので、優秀でないと自信のない私の気持ちもよく理解できたのかもしれないと思う。

欧州人の一般的な男性は、男女同権だから同義務という考え方なのだ。
家のローンも半分ずつ、税金も半分ずつ、子育ても一緒にするけど、意見も半分ずつ。
押さえつけるような発言は全くないけれど、交渉事も一緒にしなればならない。
自然に自分の足で立つ人間になっていく。
但し、建物の扉は当然のこと、車の扉は、回って来て開けてくれる。
扉が重いと嬉しい。
物を持ったり、裾の長いものを着ている時には助かるけれど、それ以外では、そんなに必要ではないかも知れないと思っていた。

日本では、レディーファーストは、まだまだで、偉そうにしている男性も多い。
でも実は、家庭の中だと女性の方が強いということもよく聞く。
日本では、そもそも男女の報酬が同じではないことが多いので、主に男性が経済的に家庭を支えるのが普通だった。
こうして比べて考えてみると、もしかすると日本の男性は、違う形でやさしいのかもしれないと思うことがある。

さりげないひとことがあった。
「そういうことは、思い通りにした方がいいですよ」
少し年上の人だ。
かなり前のことだし、仰った人は、もう忘れてしまったかもしれないけれど、こういう言い方があるのだと、とても嬉しかった。
人との関係は、そうした一言ずつを積み上げて作っていくものだと思う。
それには時間がかかるから、この先、何人くらい友人ができるのだろうと、時々考える。
いつかは、誰かがほっとするようなひとことを、さり気なく言える人になれるといいなと思っている。

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