生きる理由

社会のこと
BundschattenによるPixabayからの画像

昨日、ジェンダーフリーな生き方をしていることで有名だった27歳のタレントの人が亡くなった。
事務所で亡くなっていたとの報道があり、ネット上にたくさんのお悔やみのメッセージが流れていた。
こういう影響力の強い人が亡くなった場合、後を追うように亡くなる人が増えるので、マスコミでも報道の仕方に注意を払っていると聞いた。
そんなことが起こらないように、これも祈るしかない。

「自ら死を選んではいけない」
という人は多い。
理由は、家族や周囲の人が悲しむから、というのが多いと思う。
確かに私もそんなことを言った記憶がある。
でも、死にたい人を止める動機としては弱くないかしら?と思う。
もっと、これだからいけないという絶対的な言葉があるといいのに。

亡くなった人が例え知らない人であっても、生きられる命を途中で絶つということには、胸が痛むし落胆をする。
・生きたくても生きられない人があるのに、そんな風に命を無駄にしてはいけない。
・人には寿命があるので天寿を全うしない人は、死んだら地獄に行く。
・周囲に迷惑がかかる。
なかなか決定的な言葉は見つからない。

若い頃、もっと消極的にでも死を望んだことは何度かある。
生きる意味が見つからなかったからだ。
その頃は、自分の命の価値というのものも感じられなかった。
喜びはあっても幸せという感覚を強く感じなかった。
したいことはあっても、そのために夢中になるほどの動機も持っていなかったように思う。
家族は悲しむ? でも一時的な感覚だけだろう…というような。
親が亡くなってしまっているような場合には、ここも簡単にスルーしてしまう。
そういう前提があって、何かが起こった時に負の方向へ動いてしまうのではないかと思う。
他人から見ると生きるのに大きく躓いていなかったとしても、本人には、それが越えられないものに感じることがある。
自死を奨励したいのではない。
何とかして止められたらと真剣に考えている。
全ての動機を覆すような力のある言葉はないものかと。

少し前から哲学の話があったので、そういうことを考える機会になっていた。
そもそも人間とは何?
どう生きるべきか?
生きる理由は何?
何を目的としているの?
本の中には、その答えを書いてあることも多い。
それは哲学とは限らない。
宗教でも説かれている。
だけどそれは、信じることが前提なのだ。
私のような不遜な者に宗教は、本当には入って来ない。
仏教寓話で育ったので、倫理観はそこそこ持っていて、単純な分かれ道では、迷わないのでありがたいことだと思う。
けれど、人智の及ばないところは仏門に入るとか、それが神道でもキリスト教でも入って行くべきと聞いても、飛び込んで入れないものは、仕方がない。
そのまま、まるっと信じられれば楽なのだろうと思う。
だから、信じられる人のために宗教はあった方がいいと思っているけれど。

カウンセリングでは、逆らわずに話を聞く。
引き出すだけで相手は楽になるし、答えが自ら見つかる場合もあると習った。
しかし、これも必ず有効とは限らないのだ。

どんな悩みもその人にとっては、本当に大きなものであるから悩むので、簡単に「そんなこと」と断じてもいけない。
特に若い年齢の人の社会は狭いので、例えば小・中学生は、学校が社会のすべてに見えている場合が多い。
そこへ「そんなことくらい」と言っただけで相手は、ガラガラと心のシャッターを閉じてしまう。

縁者の中にも、そうした人はいた。
傾向はあったのかもしれない。
でも、普段からこの人は強いとか元気だなどと思い込んでいて、確証バイアスにとらわれがちだったりすると、不都合なことは見逃してしまう。

物事には起こってしまったら取り戻せないことがある。
なので、もう一度周囲をよく確認してみようと思う。
だからと言って、必ずこうしたことが防げるわけではない。
亡くなった人には、心からご冥福を祈ろう。
それでも同じ時代を生きる人の仲間として、何とか自然のままに命を全うしてほしいと切に願う。

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