Io vivo per lei (伊/私は彼女のために生きる)

自分のこと
BerndによるPixabayからの画像

Vivo per lei – Andrea Bocelli
イタリア語の曲に興味のない人でも、おそらくこの曲は、ご存じだと思う。
この曲を知ったのは、もう20年以上も前のことで、その頃、私には、マリー・テレーズというフランス人の義姉がいた。
彼女は、フランス国鉄の職員でマネージャーになった後に定年退職した人で、髪をショートにし、半分は彩度を抑えたピンクパープルに染め、もう半分は黒にしていた。
小柄だったけれど、ぱっと目立つおしゃれな人で、私のフランス語が上達するのを待っていた。
「話したいことがあるのよ」
私の娘を介してそう言われたので、早く上手に話せるようになりたいと思っていた。

彼女に子供はいなかったけれど、地域にいる子供たちを更生させるボランティアをしていて、彼女が、その施設の近くへ行くと、ティーンズの子供たちが笑顔で話しかけて来た。
そういうところから、彼女の人柄がよく分かった。
とてもシンプルで、優しく賢い人だった。
マリー・テレーズが最初に私にプレゼントをしてくれたのが、Hélène Ségara のCœur de verre(仏/ガラスの心)というCDだった。
「Vivo per lei」という、ここに収録されている曲が、娘のために生きている私にぴったりだと言って贈ってくれたのだと聞いた。

この曲は、ボッチェリとのデュエットなので、男女間の愛の歌なのだろうけれど、それにしても「彼女のために生きる」と決めて生きられる人は、あまりいないかもしれないと思う。

そもそも生きていくことに、しっかりと目的をもって生きている人自体が、そんなに多くないかもしれない。
けれど、心の底から愛する人ができた時に、人は、その人のために生きられるのだろうと思う。
自分の命の重さについての考え方も、きっと人によって違うのだろう。
人は、他人を傷つけたりしない限り、自由に生きてよいものだ。
好きな芸術のために生きる人、スポーツのために生きる人、政治のために生きる人、戦争のために命を尽くす人、そして彼女や彼のために生きる人、一人の選択は、全部並列で並べることができる。
輪廻はあるかもしれないけれど、とりあえず現生では、後戻りも繰り返しもできないから。

子供を育てるということは、つい夢中になりがちなことで、それが正解か不正解かもわからないのに、安全ではないかと思った道を、親は子供に進ませようとしてしまう。
全てが親のエゴなのだけれど、夢中な時には気づかない。
でも、どんなに一生懸命コントロールしようとしても、体は一つじゃないから、人を思うように動かすことなどできっこない。
それなら、はじめから自分で選ぶヒントと知恵だけを分け与えて、じっと眺めている方が、子供は、幸せなのではないかと思う。

子供の絵本を書いてみたいと考え時に、偶然、この曲を聴きながら思った。
「彼女のために生きる」という人生は、一見、大きくないことのように見えるけれど、実は、誰かとそれだけの関係を築けているのだから、とても立派なことだと思う。
特別、自分が何かになるという夢がなくても、夢を持つ人を支える役を担う人生もあっていい。
何か特別な人になる人生でなくても、ちゃんと善悪を理解できて、自分にとって正しい人を選択できる知恵さえあればいいと思う。

マリー・テレーズは、結局、誰にも罹患した癌のことを告げないまま、化学治療を拒否して、2002年に亡くなった。
おそらく私に告げたかったのは、自らにとって正しい選択をしながら、もうすぐ自分は去っていくということだったのだろう。
彼女もまた、義兄を支えることと、子供たちの幸せを願い、彼らのために生きた人だった。
短い間だったけれど、彼女に出会えて、そういう生き方もあると教えてもらえたことは、とても幸運なことだったと思う。

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